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2014年第4回エステ感動物語 最優秀作品賞

第4回エステティックグランプリのエステ感動物語 エステティシャン部門の受賞作品をご紹介します。


第4回最優秀作品賞

Tempat Tenang

Mi-koさま

2014年第4回エステ感動物語 最優秀作品賞「看病ではなく美のプロデュース」

私がホスピタリティセラピストになったのは、2000年5月14日(当時の「母の日」)に逝った母の遺言がきっかけです。

私には「心臓弁膜症」と言う難病を抱えた2歳違いの兄がいます。
生まれたその日から、生きるために小さい身体にいっぱい針を刺され、多くの手術をし、医療機器と医療関係者に囲まれた幼少期の兄、しかし私もまだその事を理解出来ない子供。
兄の看病と金策に走り回る両親。私は親戚の家を転々とするか、ひとりで時間を過ごす日々。幼い頃から我慢すること、周囲に気を使いながら生きること、相手を労わることを自然に身に付けて居ました。
ある日私は母に「みーこはどこの子?みーこのママは誰?」と尋ねたことがあります。
すると母は「みーこはお兄ちゃんの保険として生みました。」と、幼い私にちゅうちょなくストレートな答えを話す母。心身ともに余裕がなかったのでしょうけれど、私は子供ながらに焼き付いた母の言葉で、嫌悪感と共にぼうぜんとしたことが記憶にあります。
私が3歳のある日、疲れている母が小さな私に分かるように伝えました。
「みーこ、ここをトントンして!」。肩たたきです。
このトントンをすると母に触れられ、傍にいられて、その上最高の笑顔で優しく褒めてくれます!
いつしかこの「トントン」を、私が預けられている所ですると、母と同じように最高の笑顔と褒め言葉を貰えるようになりました。
ある日、「みーこちゃんはあんま屋さんになると良いね!」と周囲の人から言われるようになりましたが、幼い私に「あんま屋」の言葉の理解が出来なく、幼稚園に上がった時に、心無い人から「あんま屋は目が見えない人や障害を持った人の仕事なんだ。」と言われて心が傷付き、人の身体に触れられなくなりました。

そんな私でしたが、中学に入り祖父母が倒れ、病院や介護施設に入ると、見舞いの度に祖父母の身体をマッサージし、喜ぶ顔を見てはもっと喜んでもらおうと病院や介護施設の先生や看護師さんに痛みや苦痛、リハビリのことを習い始めました。
家にいる時はひとりで寂しいのですが、病院や介護施設に行くといろいろな人達が私のマッサージを心待ちにし、私が来るのを楽しみにしてくれましたので私も嬉しくなってきました。
そこからいつしかボランティア活動が始まっていました。

結婚を機に海外へ渡った時、「ボランティア」を本場のアメリカで学びました。
私の仕事は物作りでしたが、物作りでもリハビリや癒しや美につながることが出来るということを知り、それを追求して行くことが楽しくなり、私にもできるボランティアの探求や勉強と、本格的な活動が始まりました。

1999年春、私が体調を崩し日本に帰国し、生まれて初めて母に看病をしてもらいました。
同年の夏、私の体調が良くなりアメリカに帰国する時に、母が末期の癌である事を告げました。
余命3ヶ月・・・年越しも出来ない事を。
私と家族はあまり触れあいが無く良い関係では有りませんでしたが、結婚をし、苦労を話せたのは母に。やっと母のありがたみを感じとても悲しく思いました。

私は、ボランティア活動で長く病院や施設に出入りをしていたのでケアの真髄は心得ていたつもりですが、それも自分を生んでくれた母となると辛い看病になりました。
看病するにあたり母が亡くなるまでに私に託したこと。それは、
 1月.最後のお正月を家族で過ごしたい。
 2月.雪が見たい。
 3月.梅の花が見たい。
 4月.桜の花が見たい。海に行って砂浜を歩きたい。
 5月.庭のバラを見たい。
その他
 ・いろいろな写真を撮る。
 ・痛みで苦痛な顔になるのを食い止めたい。
 ・大好きな編み物を一つでも多く作りたい。
 ・遺言を書く。

命のカウントダウンが始まりました。
母の「死ぬときに後悔はしたくない」との言葉に、自分の為の時間を過ごす事がなかった人生が終わりつつあることに、母自身、少し戸惑いがあるように感じました。

手術をしたのち、看病、リハビリ、癒しをしましたが、一番母が望んだ事は“美”でした。
常に綺麗に、可愛く!特に兄や父が来る日は特別に綺麗に可愛くする事を望みます。
女性は灰になるまで女性なのですね!
私は決めました。命尽きるその日までは「看病」ではなく、母を綺麗で可愛くする為の「プロデュース!」を行うことを。
痛みのために身体や顔がゆがむと痛いところをマッサージして、少しでも緩和させる。
顔色が悪くなれば血行を良くする。
食事は楽しく、服装は自然でありながら艶やかで気分がよくなる物を!
その事が功を奏して余命3ヶ月のはずの母が、望む季節の移り変わりの花を見ることができ、大好きな海の散歩も自分の足で歩けました。
自宅に帰省したある日、夜中に母のケアが終わり一緒にベッドに入ると雲一つない空には明るく照らす満月がありました。月明りとは思えないくらい明るい光の下で突然母から遺言を言われました。
「小さい頃からたくさんの我慢をさせてしまってごめんなさい。」
「生まれてすぐから一人ぼっちにさせてきたこともごめんなさい。」
「小さな手で肩トントンして私を癒してくれてありがとう。」
「たくさんの笑顔と元気をありがとう。」
「お母さんからのお願いです。学んだケア技術で、その優しさと笑顔と癒しの力を使って、多くの人の人助けとなる道の仕事をして欲しい。」
「そばにいて話を聞いてあげることも、アドバイスもしてあげられないけれど、サロンが華やぐ様に、サロンを開いた時に飾れるレースの飾りをたくさん作っておきました。
これでいつも私が近くに感じられるように、少しでも応援出来るように準備をしたから、素敵なサロンを開いてね。」
「人の表面だけを綺麗にするだけではなく、心から笑顔になれるように、人の痛みや悩みが分かるエステシャンになって欲しい。」

2000.5.14.AM11:30(日)とうとう母が亡くなりました。
母の遺品を片づけ終り、自身の帰路にも立たされ、私自身が病に倒れ、引きこもったりした時期もありましたが、ふと「バリ」と言う言葉が降りた事から沢山調べ、思いきって、2003年、エステ技術のスキルアップと自身の癒しのためにバリ島に行きました。 バリ島のあまりに綺麗で神秘的な空間から「健康と美と癒し!」この三位一体こそが究極のエステなのだと私は悟りました。
それを悟った地であるバリ島に、母の魂を住まわせたく、母の遺骨を花の香りが漂い綺麗な夕日が映ったタナロット寺院の海に流し、この「健康と美と癒し」という究極のおもてなしの心で一回一回の施術に全力を尽くことを誓いました。
カウンセリングもセラピストの名に恥じないよう最善の回答が出せるように日々勉強!“初志貫徹“ 誠心誠意の接客を心掛けています。

天国のお母さん!!遺言守っています。そして、一人じゃないよ!!
私はたくさんの人に助けられ、たくさんの方に応援してもらい、たくさんの方の笑顔と感謝の言葉をもらって頑張っていますから、心配しないで!」
「遺言で、この道に導いてくれて、おかあさんありがとう!」
「看病ではなく美のプロデュースということを教えてくれてありがとう!」 

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